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入江一子 『嫩江(ノンコウ)の赤い夕日』
入江一子 『嫩江(ノンコウ)の赤い夕日』
入江一子 『嫩江(ノンコウ)の赤い夕日』
入江一子 『嫩江(ノンコウ)の赤い夕日』
入江一子 『嫩江(ノンコウ)の赤い夕日』
入江一子 『嫩江(ノンコウ)の赤い夕日』
入江一子 『嫩江(ノンコウ)の赤い夕日』

嫩江(ノンコウ)の赤い夕日 Nenjiang's red sunset

入江一子

私は戦前、貿易商の家に生まれ、東京女子美術専門学校(現在の女子美)に入るまでの多感な時代を大陸、現在の韓国・大邱(タイキュウ)で過ごしました。

子供の頃から絵ばかり描き、毎日一枚は必ず描きました。誰もが楽しみにしていた修学旅行にも行かず、絵に没頭し、いい絵が描けますようにと、頭に鉢巻をして神社に参拝に行ったこともあります。

女子美に入学するため、親戚の反対を押し切り、たった一人で日本に渡りました。そこではその後の私の絵の道を開いて下さった、林武先生とのめぐり合いもあったのです。

女子美を卒業して大邱に戻ると、満州のハルピンとチチハルでの個展の要請があり、水彩画や額縁など大きな荷物を持って、一人で汽車に乗りました。

ハルピンを出ると果てしなく広がるコーリャン畑が続く一木一草もない大平原です。

そこには雄大な夕日が落ちていきます。嫩江という川に行ってみると、川面は血を流したように夕日で染まり、ジャンクのような舟が一隻浮かんでいます。これはとても絵には描くことはできない、その風景の前では私は何もできないと思いました。

私の絵の原点には、その時に見た中国・嫩江の川面が真っ赤に染まった風景との出会いがあり、私のシルクロードの旅は嫩江の赤い夕日を追い求めることから始まったともいえるのです。

1
イスタンブールの朝焼け "A Morning glow of Istanbul"
絵画:イスタンブールの朝焼け
イスタンブールの朝焼け
100号(1973年12月~74年1月)

中国の長安をシルクロードの起点とするならば、トルコのイスタンブールは、西方のシルクロードの終点ともいえるところです。

ボスボラス湾に臨んだホテルに宿泊していたのですが、朝、窓が真っ赤になっているため、火事かと思って驚いて飛び起きると、目の前のボスボラス湾が朝焼けで真っ赤に染まっているのです。

 

モスクのシルエットにたくさんの鳥たちが飛び交い、素晴らしい風景が広がっていました。

この時、嫩江の面影とボスボラス湾の朝焼けを重ね合わせることができたのです。そこにはいつも心に焼き付いていた嫩江と同じ色彩がありました。

2
バーミアンの石仏 "Bamiyan's Stone Buddhas"
絵画:バーミアンの石仏
バーミアンの石仏
150号(1974年3月~4月)

ニューデリーからアフガニスタンのカブールに向かう飛行機から遊牧民のテントなどが見えはじめると、いよいよシルクロードの中心ともいえる中央アジアに近づいた感じがひしひしと伝わってきます。

 

いよいよ世界最大の石仏に会うため、砂漠やオアシスを越えバーミアンを訪れました。土ばかりの険しい景観のヒンズクーシュ山中に、50メートルもの大石仏が立ちはだかっているのです。石仏の顔はイスラム教徒に削り取られ、往時の凄まじい戦いが偲ばれ、どこからか聞こえてくるコーランの響きに、シルクロードの盛衰を感じました。

 

バーミアンの山々の色が刻々と変わっていく様子は神秘的までの美しさです。それと対決し幻想的な景色を描くのは不可能だと思ったぐらいです。

 

私は原画を作成するために、ここに残りました。スケッチブック数枚を使ってバーミアンの石仏と山々を描写し、それを持ち帰って150号に完成させました。

私はモチーフを見つけると、その場で徹底して描き込むようにしています。できるだけその景色を写生し、自分の感情をできるかぎり込め、スケッチブックに描くのが私のやり方です。

3
カリアン広場(ブハラ) "Carian Plaza (Bukhara, Uzbekistan)"
絵画:カリアン広場(ブハラ)
カリアン広場(ブハラ)
200号(1976年3月~4月)

それから二年ほど経って、ヒンズークシュを超えた向こう側の、ウズベクを訪ねる機会がありました。ウズベク共和国のサマルカンドには、ティムール帝国の栄光をそのまま讃えたグル・イ・エミールなどの3つの遺跡があります。

 

ブハラは砂漠の中のオアシスです。旧市街の中心にあるカリアン広場に入りますと、ブラハの象徴であるミナレットがくっきりそびえ立っていました。

その昔火を灯してキャラバンの道標として人々を導いたそうです。

 

折り重なる民家も長い間に亘って風化され、出会った彫りの深い顔立ちのおじいさんは藍色の民族衣装をまとい、シルクロードそのもののイメージを掻き立てられます。建物も人々も昔のままでいて欲しいと、祈りながらカリアン広場の絵を描きました。

 

現地の建物、風景、人物などを表現するには、現場で実際の油絵の具を使って日数をかければいい絵ができるかもしれません。しかし、限られた滞在時間では無理なので、水彩絵の具、クレパス、色鉛筆、アクリル絵の具など、色々な画材を使って、それに近い表現を短期間で仕上げるようにしています。この時も、スケッチブック二枚に描いて、200号の作品の原画にしました。

4
シルクロード記念館にある民芸品 "Folkcrafts from Silk Road Museum"

私の絵の描き方は、シルクロードで見たものをスケッチし、日本に帰ってから再構成する方法をとっています。現場ではなるべく現実の風景に近いように描きますが、そのまま描くのではなく、できるだけ現場の感じや雰囲気をも捉えるように工夫します。

 

私が衣類や帽子、装飾品などを買い物をするのは、日本に帰ってから絵を完成するための必要な小道具なのです。通り過ぎる人はスケッチしにくいので写真を撮ります。テープレコーダーは必ず持って行きます。

 

日本でテープを流しながら作品を描いていると、旅先での音楽や雑踏のざわめきが聞こえてきて、遠くのシルクロードの臨場感が戻ってくるのです。

5
伎楽飛天 雲崗石窟 "Feitians (happy flying Apsaras) from Yungang Grottoes"
絵画:伎楽飛天 雲崗石窟
伎楽飛天 雲崗石窟
100号(1978年8月~9月)

私にとってのシルクロード、それは限りなく夢と希望に溢れた世界です。

 

中国大陸へもう一度渡りたいという長年の夢がかない、雲崗石窟の仏像にめぐり合うチャンスがとうとうきました。1978年、日中国交回復後、日中友好美術教育訪中団に一員として、香港、深セン、広州、北京、大同、太原、石家荘を訪れることができたのです。

 

雲コウの大小千五百余りの石窟には、五万一千体もの仏像が刻まれています。

6
敦煌飛天 "Dunhuang Feitian (Flying Apsaras)"
絵画:敦煌飛天
絵画:敦煌飛天
敦煌飛天
200号(1979年7月)

北京から空路5時間かけて蘭州に着きました。蘭州は西域の入り口であり、少数民族も多く暮らしており、いよいよシルクロードに入った感じがします。

 

敦煌はかつて沙州と呼ばれたように、その名の如く砂漠の街です。その中に南北1600メートル、岸壁の高さ50余メートルの莫高窟があります。どの石窟の天井にも沢山の飛天が描かれていますが、私は第320窟の飛天にすっかり魅せられて、なんとしても描き留めたいと思いました。

 

本来は外国人には模写はさせないのですが、真っ暗な洞内で懐中電灯を明かりにして、2時間かけて飛天を模写させてもらいました。3階もある莫高窟の壊れかけた木の階段を画材やカメラ、テープレコーダー、懐中電灯などを持って、大変な思いをして登った私の熱心さに感激してくれたのか、好意により特別に模写することができました。そうした死闘により『敦煌飛天』が出来上がったのです。

7
スケッチ トルファン葡萄棚の下の踊り
"Dance Under a Turpan's Grape Trellis (sketch)"
絵画:トルファン葡萄棚の下の踊り
絵画:トルファン葡萄棚の下の踊り
トルファン葡萄棚の下の踊り
(1980年8月)

ウルムチやトルファンはシルクロードとともに歴史を刻んだ場所です。

ウルムチは中国西北の新彊ウイグル自治区にあり、天山山脈の北麓に位置し、標高は800メートル、ウイグル語で「美しい草原」という言葉とおり緑の多い爽やかな、日本で言えば軽井沢のようなところです。

 

新彊は古くは西域と呼ばれ、二千年以上も前から中国の絹の隊商が往来し、東西文明が交わり、華やかな文化が咲き誇りました。

ウルムチを早朝出発し、摂氏40度を超えるゴビ砂漠を移動しトルファンに着きました。

 

この日は年に一度のお祭りという幸運に恵まれました。

そこでは中近東特有の弦の音色の中、ウイグルの歌舞団の踊りが始まっていました。

 

私はこの葡萄棚の下の踊りを描くためにここに来たわけで、その様子を一心不乱に描きました。そして、翌朝も早く起きて葡萄棚の下で葡萄を描き続けました。こうしてスケッチは殆ど完成しました。

8
トルファン祭りの日 "The Day of Festival - Turpan"
絵画:トルファン祭りの日
トルファン祭りの日
200号

そして個展に出品する作品に仕上げるために、日本に帰ってからもアトリエで200号のキャンバスに描き続けました。踊りの躍動感と雰囲気を出すことと、沢山の人々と葡萄棚を構成することに苦しみましたが、私のすべてを注ぎ込んで完成させました。

 

こうした苦心の末、「トルファン祭りの日」は出来上がったのです。

5
ベゼクリク "Bezeklik"
絵画:ベゼクリク
ベゼクリク

ベゼクリク千仏洞はトルフアンの東北50キロ、西遊記で孫悟空が活躍したという火焔山北麓の断崖にあります。

 

6世紀から14世紀にかけて作られ、57の洞窟があり、20数箇所に美しい壁画が残っています。

 

ベゼクリクというのは、ウイグル語で「絵画で飾られた場所」という意味だそうです。

10
カシュガルの昼下がり "Midafternoon at Kaschgar"
カシュガルの往来
カシュガルの往来
入江一子撮影
(1982年9月~10月)

カシュガルはウルムチから飛行機で5時間、天山山脈の真上を低く飛び、機内には中国の音楽が流れてきたときは、感激で涙が止まりませんでした。カシュガルに着くと、ここでも運よくクルバン祭りという年に一度の民族の祭典にめぐり合いました。

 

この日は中国遺跡最大の回教寺院といわれるエテカールの屋上からラッパや太鼓の音が響き、礼拝を待つ人が中庭から広場にも溢れ、寺院の高い塔からはイマームという導師が朗誦するコーランが流れてきました。

 

この寺院から15分ぐらいのところに、体から芳ばしい香りが漂う西域の美女、香妃伝説で名高い香妃廟があります。

絵画:カシュガルの昼下がり
カシュガルの昼下がり
80F(1982年9月~10月)

カシュガルの町には、ポプラの並木道が続き、馬に乗った人が行き交ってとても絵になる風景でした。その場でスケッチをして帰国後「カシュガルの昼下がり」という作品に仕上げました。

 

日曜のバザールでは装飾品やタバコなどだけでなく、ラクダや馬なども売っております。

私は眼に留まった、マチスのような柄の絨毯がどうしても欲しくなり買うことにしました。余りに重いので困っていると、大勢の子供たちが、ワッショイワッショイとホテルまで担いでくれました。

その絨毯は鎌倉のアトリエにあるのですが、今でもタクラマカン砂漠の砂がこぼれ落ちてきます。

11
カッパドキア "Cave Houses of Cappadocia"
絵画:カッパドキア
カッパドキア
200号(1980年3月~4月)

 

12
花咲くチェスメ "Blooming Cesme"
絵画:花咲くチェスメ
花咲くチェスメ
60S

西トルコでは、エーゲ海沿いにオスマントルコの都プルサから、19世紀末にシュリーマンが劇的な発掘に成功した伝説の街トロイの遺跡を訪れました。それから聖書にも出てくるベルガマに足を運びました。港町のチェスメでは、美しい花が町により彩りを添えていたのが印象に残り、港町を背景に「花咲くチェスメ(追想)」を描きました。

 

カッパドキアは西トルコで一番の名所であり、アナトリア高原のほぼ中央に位置しています。

 

古代の火山噴火の時に降り積もった火山灰が、長年の風雨に曝された結果、奇妙な形の岩となって一面に広がっています。 鉛筆のように尖った奇石になって、あたかも月世界を思わせるような、一種異様な雰囲気に満ちています。

 

私は岩窟協会群に描かれた壁画がとても気に入り、一日中ガイドについてもらい、その岩窟の壁画を写生しました。イスラム教とキリスト教との攻防が繰り返された彼の地で出会った岩窟協会の壁画の魅力が自然な構図で描けました。

13
モスクのある街(東トルコ) "Town of Mosque (East Turkey)"
絵画:モスクのある街(東トルコ)
モスクのある街(東トルコ)
(1984年6月~7月)

東トルコはイラクとの国境に近く、クルド族が多く住んでおり、環境も厳しく観光で行く人は殆どいません。

 

しかし、トルコ西部とは全く別の世界が広がる東トルコには、古代の少数民族や大提督が残した遺跡が散在しています。

 

他では見ることのできないビザンツ帝国時代の僧院も残っており、数少ない秘境のひとつと言えるでしょう。

14
パミール高原 "Pamirs Plateau (Tajikisutan)"
絵画:パミール高原
パミール高原
50号(1982年10月)

次にパミール高原を目指しました。この高原は、天山、カラコルム、ヒンズークシュの三つの大山脈が集まって形成された巨大な高原地帯です。高原といっても平均海抜は五千メートルにも達する場所で、六・七千メートルの山々がそそり立っております。

 

ともかく高度が高く高山病の心配があるので、血圧と心臓の検査をしてもらってから出かけることにしました。

 

パミールは珍しく快晴で、絵を描いていると集落から総数民族の人が物珍しそうに集まってきました。その様子を描いたのが、「パミール高原」です。

15
ブータン祭りの日 "The Day of Festival - Bhutan"
絵画:ブータン祭りの日
ブータン祭りの日
200号(1983年3月~4月)

自らを“龍の国”と呼ぶブータンは、“神々の座”ヒマラヤに息づく国です。

ラマ教文化400年の沈黙を破って、1974年に閉鎖状態を解除しました。

 

それまでは日本人は勿論、世界中でもこの国を訪れた人は数えるほどしかありません。

ヒマラヤの真っ只中という過酷な自然の中に生きる、礼儀正しく、人間性豊かな人々との触れ合いを求めて、以前から訪ねたいと思っていました。

 

まずカルカッタに行き、国内線でバグドクラに飛び、車で三時間半、インドのアッサム地方の紅茶畑をドライブして、ブータンの入り口に到着しました。

 

ブータンに入ると、インドの騒々しさからは全く隔絶され、静かな世界でした。

街は木曽街道を思わせるような古い木造の家並みが続いてます。人々は丹前のようなゴー(日常衣)を着て、掌を表にして「クーズサンホーラ(こんにちわ」と迎えてくれます。ブータンの人々は顔立ちや風習まで日本とそっくりで、ブータンが日本人の祖先ではないかと思われるぐらいでした。

 

3月26日標高2200メートルの高地にあるバロに行きました。バロにはブータンに仏教を伝えたパドマサンババが空飛ぶ虎の背から降りてきたという伝説が残っております。

ここで3月25日から27日まで行われる仮面祭り(バロツエチェ)を見ることができました。ブータンの短い冬に別れを告げ、春の訪れを祝うこのお祭りは、一年の豊作を願って、人々は様々な民族衣装や動物や鬼などの仮面をつけ、太鼓や管楽器による民族音楽に乗って歌ったり踊ったりするのです。

 

最終日には横20メートル、縦12メートルの大タンカを年に一度この日だけ飾ります。タンカはパドマサンババを中心とした曼荼羅で、絹で作られた美しいものです。

ヒマラヤの山並みから太陽が昇ると同時にタンカを降ろします。たくさんの坊さんが音楽に合わせながら乱舞する中でタンカが降りていきます。その息詰まるシーンは本当に感動的でした。

 

16
ホータン 小さなモスク "A Small Mosque in Hotan"
絵画:ホータン 小さなモスク
ホータン 小さなモスク
(1986年3月~4月)

ホータンはカラコルム山脈に源を発した白玉河(バイユーハー)と黒玉河(ヘイユーハー)に挟まれた、西域最大のオアシスです。

 

白い砂の道を辿っていくと、土の家の民家が連なっている中に、タイルで装飾された小さなモスクがありました。カラフルな民族衣装をまとった人々をスケッチしていると、大人も子供も次々の私の周りに大勢集まってきました。言葉は通じなくとも意思は自然に通じるようです。こういう時、私は絵を描く楽しさをつくづく感じます。

 

モスクには外国人は入ることが許されないのですが、土地の人のはからいで特別入れてもらうことができました。素朴で小さなモスクの空間は、私の安らぎを与えてくれました。

17
遊牧の民ベドウインの母子(ヨルダン) 
"A Breast-feeding Mother of Nomadic Bedouin (Jordan)"
絵画:遊牧の民ベドウインの母子(ヨルダン)
遊牧の民ベドウインの母子(ヨルダン)
100F(1987年3月)

ヨルダンの人は、砂漠地帯の荒れ果てた岩山の麓にテントを張って共同生活をしています。砂の中の赤い都市ペトラは滅び去った都市として「砂漠のアンコールワット」と言われ、虹に彩られた野外劇場や、山の中の神殿、入り口を彫刻で飾った洞窟など、文化財が沢山残っています。

 

巨大な砂の岩の固まりの間をくねくねと縫う隘路を、ロバに乗ってペトラの遺跡を訪れました。ペトラにはテント生活のベドウインがたくさんいて、遺跡で拾った小さな石や彫刻を売っています。それを買い求めると、ベドウインの女性が特別にモデルになってくれるというので、母親が赤ん坊を抱いて乳を飲ませているところを描きました。それが、「遊牧の民ベドウインの母子」です。

18
パルミラ(シリア) "Palmyra (Syria)"
絵画:パルミラ(シリア)
パルミラ(シリア)
(1987年3月)

ヨルダンから国境を越えてシリアに移動しました。首都のダマスカスの後、メソポタミアと地中海を結びオアシス都市パルミラに向かいました。壮大な列柱の通りや壮麗な神殿群が目の前に見えてきた時には、かつて長いたびの末に、やっとパルミラに辿り着いた隊商たちが抱いたのと同じような感動を味わうことができました。

まさにそこは、砂漠の中のオアシスです。

 

パルミラはギリシャ風の円柱劇場や、かつて200体ものブロンズ像が飾られた広場、両側に列柱が並ぶ1100メートルの大通り、その背景には広大なパルミラ神殿を配しています。

 

夕方になると、列柱の間に夕日が射して、羊の大群を連れた羊飼いが通ります。その列柱や神殿がシルエットになり、羊飼いたちが通っていく姿を見ていると、繁栄した当時のシルクロードの世界に入り込んだような思いにとらわれます。

19
杏咲くフンザ(パキスタン) "Apricot Blooming Hunza (Pakistan)"
絵画:杏咲くフンザ(パキスタン)
杏咲くフンザ(パキスタン)
200号(1987年4月)

フンザはカラコルム山脈の中心にあり、不老長寿の桃源郷、あるいはシャングリアと呼ばれます。イスラマバードからグルギットまでの山岳地帯を有視界飛行するので、天気が悪いと飛ぶことができません。ギルギットからフンザまではバスでの移動になり、一面に広がる杏の花の中を走りました。ここの杏の花が一斉に咲くとその素晴らしさといったら日本の桜の比ではありません。まさにシャングリアです。

 

しかしフンザの桃源郷の谷を越えたら、大氷河が待ち受けているのです。

 

クンゼラブ峠という標高五千メートルくらいの中パ国境に差しかかると、ジープが雪で動かなくなり、ついに全員歩くことになってしまいました。

 

シェルパ達は普段から山登りをしており、山登り用の靴を履いていますが、私は普通の靴なので歩くことは非常に困難です。でも一人山中で取り残されるのも怖いので、仕方なく付いていくことにしました。後ろから押してもらったり、手を引っ張ってもらったり、息も絶え絶えにクンゼラブ峠に連れて行ってもらったのです。 やはり五千メートルの高山は私にはきつく、帰国して2~3日経ったら腰が抜けてしまったほどです。

20
ラダック へミス祭(西チベット) "Ladakh Hemis Festival (East Tibet)"
絵画:ラダック へミス祭(西チベット)
ラダック へミス祭(西チベット)
200P(1988年6月)

シルクロードの辺境には何度も足を踏み入れましたが、インド西北部のチベットだけは経験がなく、以前から訪れてみたい憧れの土地でした。

 

エアインディアでデリーまで行き、翌日国内線を乗り継ぎ、カシミール地方にあるインド最大の避暑地スリナガルに行き、広大な湖に浮かぶハウスボートに宿泊。翌日目的のレーまでは、体を慣らすため、400キロ余りを車で走破することになりました。

 

暫くは樹木の多い風景の中に、美しい民族衣装をまとった人々を見かけましたが、標高が2740メートルを越えると、あたりの景色は一変して、月面を彷彿とさせる不毛の荒れ野になります。

 

ラダック地方の最初の玄関になるゾジラ峠は、今にも崩れ落ちそうな急斜面の道を、つづら折に、行きつく間もなく下がってはまた上りの繰り返しです。谷底に車が一台落ちているのが見えましたが、気にも止めず進んでいきます。

 

フォーツラ峠を越える頃には、空気が更に薄くなり、高山病の恐れがあるため、ガイドに「ゆっくり歩かなくてはいけません」と注意されながらも、左にカラコルム、右にインダス河を眺めながら、漸く目的地のレーに着きました。

 

レーの街はラダック地方の中心地で、多くのチベット仏教寺院がありますが、その最大のものがヘミス寺院で、満月の日を中心とした6月24日、5日に大祭が行われました。ラマ僧たちが種種の仮面をつけて銅鑼やシンバルの音に合わせて、昔から伝わる神話を踊り続けています。大勢の村の人たちは、とっておきの民族衣装に着飾り、ひたすら仏と心がひとつに結ばれることを願って拝んでいます。広場の群集には熱い信仰心が満ち溢れていました。

21
四姑娘山麓の青いケシ "Blue Poppied Piedmont of Sukunyan (Tibet)"
絵画:四姑娘山麓の青いケシ
四姑娘山麓の青いケシ
200P(1992年7月~8月)

中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニャン)山麓に青いケシの花が生息しているという話は、以前から聞いていました。しかし、標高4300メートルの高地にあるため、それを見るためには、テントでの宿泊を二泊して馬に乗り山に登らなくていけないというので躊躇しておりましたが、青いケシを見たい一心で遂に決心をしました。

 

上海から成都へ行き、翌日車で臥龍(ウオーロン)の紹介所を目指しましたが、雨と土砂崩れでバスが通れず、耕運機に乗って進みましたが、今度は橋が落ちていて、泥んこ道を歩きやっとの思い出いで辿り着きました。

 

臥龍からはバスで日隆(リーロン)という村に向かいます。日隆は、最果ての地であり、山だけがそびえているところでした。

まだここは開放されておらず、中国でもチベット文化圏に入っている地域です。

紹介所には、トイレがないので外で用をたさなければなりません。紹介所だけには電気がきていましたが、民家には電気も水道もない所です。

 

翌日はいよいよ山登りの旅であり、四姑娘山麓のお花畑に向かって歩き始めました。

標高は3600メートル、周囲にはツリガネニンジン、メタカラコウ、黒いユリ、ハクサンフクロウ、ハハコグサなど珍しい高山植物の宝庫です。

標高は4000メートル以上になってき、結局私は馬に乗ることになりました。山の斜面には、ヤギや羊の群れが見え、村の子供が世話をしています。民族衣装を着たチベットの娘たちが、「四姑娘(シークーニャン)」を歌いながら、エーデルワイスなどの花が咲き乱れる高原で草を採っています。

 

ベースキャンプに着きテントを張りました。翌朝はタークーニャン4300メートルまで、いよいよ青いケシの花を訪ねての山登りです。4000メートルくらいになるとカメラを操るのにも息がきれそうになります。あまりにも雨がひどく、霧が流れているので諦めて、引き返そうとすると、突然、青いケシの花が一面に咲いているのが見えはじめました。はるばる訪ねてきた甲斐があったと、みんな大感激でした。

 

感動を心にとどめながら、雨の降るなかをベースキャンプに向かって下りていきました。ベースキャンプでは、私は高山病のような状態でフラフラで、テントの中から出ることさえできず、そこに二泊した後、臥龍に戻りました。

次第にお天気が良くなってきました。草原を馬に乗っていくのは気持ちがいいものです。チベットのラマ教の教文がかかれたタルチョが風に揺れるころ、四つの山々が姿を現しました。タークーニャン(大姑娘)が長女、次と次の娘さんという意味の、二姑娘、三姑娘そして四番目の妹、四姑娘(シークーニャン)という名前がつけられた山々です。

 

みんなで、「四姑娘の山よありがとう。さようなら、中国の山よ、四川省の山よ」と歌いながら山を下りました。

【四姑娘の歌】
四呀 四姑娘 山      (スーヤ スーク-ニャンシャン)
四姑娘山的 姑娘 美呀 (スークーニャンシャンデ クーニャン メイヤ)
称門好象 世上 路上   (ニーメンハオシャン シシャン ルージャン)
開呀着大紅花呀      (カイヤジャダーホンホウヤ)
 
入江一子の旅はまだまだ続きます。

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